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その奥は深いのか。
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いねむり先生
 和田誠「麻雀放浪記」は、邦画でも屈指の超カッコイイ映画だ。真田広之の坊や、鹿賀丈史のドサ健、高品格の出目徳・・・痺れるほどキャラが立ち、また終戦直後のゴミゴミした情景を舞台にしながら、ソリッドな感じを受けたのは、成田亨のアートディレクションになるものだと直感した。

 成田亨うんぬん。を言いたかったのは、俺はどうにも博打音痴で、ドサ健たちが繰り広げる雀卓の死闘が、何をやっているのか分からず、悔し紛れに、エンドクレジットに自分の縄張りである特撮系の巨匠成田亨の名前を見つけ「知ったかぶり欲」に折り合いをつけたかっただけだ。

 だから、阿佐田哲也の本は、一部のエッセイ等を除き手を出していない。彼の書くものは凄く好きだ。だが麻雀など博打の話となると尻込みする。
 たとえば、戦闘シーンで、戦術、武器、場所。どんなものか全く分からなくて、冒険小説を読んで楽しいか?

 博打音痴はコンプレックスになっている。まあ、冗談めかして他人へ相談しても、「博打はやんないのがいちばんですよ!」と言われるだけだ。

 「いねむり先生」は、自身の阿佐田哲也との交流を描いた伊集院静による同名の小説を、麻雀漫画の大家能條純一が漫画化したもの。
 阿佐田先生は言うに及ばず、伊集院静も競輪のエキスパート、最強の麻雀漫画家というタッグでも、読もうと思ったのは「いねむり」のタイトルだった。

 阿佐田哲也がナルコレプシーに悩まされたのは有名だが、そこをヴィジュアルで描写するとどうなるのだろうと思った。
 ナルコレプシーではないが、自分の経験から、強く合わない精神安定剤とかで、不本意な眠りに落ちることはかなり辛い。
 周りも気をつかい、あるいは面倒な事も少なからず有ったと思う。

 「いねむり先生」は、「サブロー」伊集院静の目線で語られる。
 「先生」=阿佐田哲也は最初、ウィットと礼儀正しさとナルコレプシーと多面的な人物として見える。

 麻雀や競輪で交流を深める先生とサブロー。
 先生の礼儀正しさや配慮の深さは、とても賭け事の戦いのエキスパートとは思えない穏やかさだ。
 「戦い」などという言葉を当て嵌めることがすでに博打を分かってないのかもしれない。

 あいかわらず麻雀のシーンは何をやっているか分からないし、競輪もこの競技特有の身元調査ベースの推理で、いわゆる自転車ロードレースとは全く違うスポーツだ。

 読み進むにつれ、それよりも、先生とサブローが雀荘だったり寺だったり、「場」にあることがどんどん興味深くなっていく。
 旅をすることも頻繁だから、ロードムービーの色を帯びるのも当然だが、もっと、クラシックな物語を感じた。

 騎士物語のようだ。

 先生は、老騎士。サブローは、従者では無く、傷心の若き騎士。
 そう、自分の中でポジションを組むと、博打シーンに拘泥することなく、彼らの旅についていけた。

 これは、漫画の威力だろう。雀卓でどんな表情をするかなど、小説ではたぶん想像がおぼつかない。

 サブローの「傷心」は、伊集院静夫人、夏目雅子の死去にある。
 彼女のイメージ=サブローの思い出が、ストーリィのもう一つの縦糸となっている。

 日常的で、優しく、穏やかなストーリィだが、死の気配は強い。

 現実の話で、先生とサブローの出会いを年月に当て嵌めると、2年すこしで阿佐田哲也死去というゼロアワーがやってくる。
 第2巻。3巻まで出ていて、完結が幾つかは分からない。

 少し脅えながら、この優しい物語を何度も読み返している。
 
| 魂の読書 | 03:18 | comments(0) | - | pookmark |