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その奥は深いのか。
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スローター・ハウス
 「授業態度はまじめだった」「まじめな生徒がなぜ」「非常ににまじめな生徒」「まじめで礼儀正しく」etc,

 殺意は無いにせよ、同学年の生徒に対し、対人爆弾による広範囲傷害を図った少年。両親を惨殺し、時限発火装置、そして東京ガスのガス漏れ自動遮断装置の無効化という二重三重の証拠隠滅を図った少年。実兄を「確実」に刺殺した少年。情状を外せば、残虐な犯罪を犯した3少年に共通する惹句です。

 「まじめ」メディアにしてみれば、余りにも不可解な事件を口当たり良くする言葉。「まじめ」と証言する、教師・幹部教師にとってはどうでもいい生徒だったという意味。

 彼らの犯意に切り込む事はあまりにも不可解で不快です。シリアルキラーや変質系殺人者を追うほうが、いわばテンプレートがある状態で、記事は書きやすいし読者の興味も惹きやすくなります。犯行の手段については、ゲームに、ネットにと、これまた口当たりの良いテンプレートが存在し、こちらを掘り下げる事で一見、謎に切り込んだかのように見えます。

 成績が優秀ではなくても、「まじめ」という記号を手にする事は簡単です。決められた事をやっていれば良いだけです。その業務の結果の優劣は関係ありません。教師は、やらせる事だけが教育と呼ばれる彼らの仕事と思っているからです。
 たとえば掃除。必要な時間、ほうきなり雑巾なりを手にしていれば終わります。
 実社会において掃除は、どんな職場であれ、最重要な業務の一つです。怠れば工事現場では事故が起き、飲食店では客が中毒死します。そこには、まじめなどという曖昧な言葉のでる幕は無く、何にも優先される仕事という必要性が君臨します。

 教室の安定を乱すのは不良ないしは不良ぶった一部のバカですが、彼らはバカなので示威行動をくりかえし、教師の関心を不必要に買います。そして教師は彼らに対処する事でまた日当分働いた満足感を得ます。彼らの動きは理解し易く、教師のコントロールを離れる時は、そのまま管轄が警官にスライドするので、婆さんを改造バイクで轢き殺したなんていう事態も、教師は責任から免れてしまいます。

 上記のようなバカは少なからずディフォルトとしてクラスに装備されています。そして、真剣に勉強するものは外部にもっとまともな学習環境を探し、俺のような暗いバカは、「まじめ」を装い、不良とは関係の無いアンダーグラウンドな情報に憧れ、収拾します。

 なぜ?お前等が全員気にいらねぇからだよ。

 バカ不良生徒の方が、自分よりはるかに高い教師とのコミュニケーションを持っています。高校生にもなれば、教員同士、あるいは幹部教員同士の軋轢、足の引っ張り合いなどの側面も見えてきます。
 「まじめ」を装っていれば、そういった教師同士のハードコンタクトの目撃者になる事は簡単です。しかし、まじめな生徒は、目撃者として意味が無く、黙殺されます。反抗したり、異議を称えたりしないからです。
 無関心のカーテンの陰で、黒い情報は収集されます。そう簡単に実行したりはしないが、計画は周到なものになります。不良生徒の様な示威と、サヨクのゲリラジジイが命を惜しんだ伝統芸能の金属弾とも違う、真の殺戮方法。
 それを手にした瞬間、「まじめ」という負の存在が、執行者という強者になります。自らの長い鬱屈も、この日のための準備段階であったかのように思えます。

 やつら(クラスメート、教師、親、兄弟)を処断するには、一旦攻撃を受ける事。反撃はその後。攻撃者に、敗北を味わわせる事。
 これは、図らずも米空軍のホーナー将軍らが提唱し、第一次イラク戦争を圧勝させた「Shock & Awe」(衝撃と畏怖)というドクトリンと似ています。
 彼らのイメージは実体化とともに、その場所を殺戮の恐怖で支配します。
 
 教師が無力なのは当然の事です。

 いつ、自分の子供が通う学校に爆弾を投げ込む奴が出てくるか判りません。俺自身が子供に爆殺されるかもしれません。

 子供の父親として、
 戦慄する以外の術を知らぬ自分の中に、
 せせら笑っている高校生の俺がいます。

| - | 18:27 | comments(0) | - | pookmark |
■TB
このエントリーは、ある意味業務連絡です。

「TB」
…と言ってもサンダーバードのことではありません。(当然

「トラック・バック」て意味あると思いますか?
俺はまったくもって意味がないと考えてます。

ネット上にある記事と記事どうしが、情報を互いに補間しあい、意味のあるリンクを醸成するのであれば問題ないのですが。

それが何であっても、記事に込められた意味を汲み取り、読者としてインスパイアされるものがソコにあり、新たな記事がまた生み出される。

俺の考え方としては、インスパイアされた側としては、元記事の書き手に対するお礼の意味すら込めつつ、足跡を残すのがトラックバックではないか?と考えております。

ですから、今までトラックバックというものを打ったことがありません。

つまり、ここ「z-Buffer」では、そういう意味合いが込められたトラックバック以外は受けつけません。

現在はJUGEMの設定で受け付けないようにしてありますが、過去の記事については、当時の設定が残っているため、TBしようと思えばできてしまいます。

今後の対応として、上記の考え方にそぐわないと俺が思った場合、問答無用に叩っ切ります。
要するに「糞TBイラネ…(-Д-)、ペッ」て事です。

ちなみに、記事に対するコメントはいつでも受け付けております。
(直接意見交換できた方が気分エエからです。
| 燃料投下!☆ | 17:02 | comments(1) | - | pookmark |
嘔吐
“Vomit Assault”→「ゲロ襲撃」
“Vomit Attack Charge”→「ゲロ突撃」

 よろしくない行為ではありますが、いくら教師にぶっ放したからといって、いち高校生を退学させてしまうほどの、凄いゲロの吐き方とはどんなものなのでしょうか?

 法的解禁の2年前、バカ大学ながら進学できた俺は、サークルの新入生歓迎コンパ、通称「新歓」でありえない酒の呑み方を強いられ、ほぼ人生初の呑み会と史上最悪のゲロ地獄を同時に経験しました。
 以来20年以上、酒を呑み続けているわけですが、まあいろいろありました。ジョッキ戻し、噴水、トイレ立てこもり、寝ゲロ、モーニングショット、街路樹に肥料、タクシーで信号停止の度に酸っぱいマーキング、不覚にも貰いゲロ、etc,
 自分に落度が無い場合。満員電車で吐かれたときは、俺の被害は飛沫程度ですんだものの、ものすごくアタマに来ました。吐いた直後の体温低下で震えている下手人を蹴り飛ばすわけにもいかず、憮然と帰宅し、汚染した衣類はゴミ箱に叩き込みました。もちろんあくる日には拾い出してクリーニングに出しました。

 忘れもしない高校2年生のとき、どっかで呑みすぎて、音楽室で反吐したバカ男子生徒がいました。そいつは登校直後から酒臭かったのですが、まさか午前11時ごろに音楽室でそんなクライシスに遭遇するとは思いません。重たいものが落ちたような音がしたかと思うと、そいつは机の上いっぱいにゲロの山を築いていました。何を午前中から大量に食っていたのか、お好み焼き大盛り4人前(焼く前)と言ったら、イメージしていただけるでしょうか。机上はまさにグラウンド・ゼロ。被害半径はゆうに2メートル。汚染範囲は普通の教室の1.5倍はある音楽室全体。

 音楽教師が温厚な人間だったので、養護教師と結託し、風邪ということで彼は救われました。我々は掃除。空気は完全に酸性になってしまい、分解されていないアルコールの臭いとあいまって、被害者であるはずの我々は貰いゲロを防ぐので精一杯でした。俺は掃除の記憶が無いので、あまりの惨状に記憶を封印したか、バックレたか。まあ後者ですね。

 バイオハザード状態は、その後ほぼ一週間続きました。脂っこいものを喰われると拭き取りにくいものです。温水を使えばいいのでしょうが、もう「酸性」な気分は御免です。

 生徒は期末試験のストレスだと主張していますが、検察の見解は完全に教師側。退学は決定で、生徒に対して謝罪を要求していますが、退学じゃあ謝る気にはなれないですね。しかしどうやったのでしょうか?言語道断と言うほどです。俺はこの手の事態の経験が比較的多い方だと思っていましたが、想像は難しい。

 教師が側に来たときに、消しゴムとか落として、拾ってもらい、教師がしゃがんだ瞬間に頭頂部へお見舞いしたのでしょうか?ジャケットのポケットにお見舞いするのも良い手ですね。精神的ダメージが大きいです。しかし、前述のバカ高校生の音楽室攻撃に比べると全然穏当ですね。あれはテロと言っても過言ではありません。しかし悪意はありません。許しがたいほどバカなだけで。山口県光高校の対人爆弾「光ボマー」の男子生徒も、犯罪を成立させにくいゲロ攻撃を検討すべきでしたね。

 吐かれるのはイヤなものですが、本人は涙目で、体温低下で震え、一番ばっちくなっている訳ですから、非難のトーンも下がるものです。

 NASAの無重力実験及び訓練機、ボーイングKC135“K-Bird”は、任務の特殊性から、「胃袋も裏返る」その名も「ゲロ彗星」というニックネームを持っています。この、誇り高いオゲレツといったセンスは素晴らしい。吐かれたぐらいで警察沙汰にする教師の教育者としての資質はどうなんだ?と思います。

| 時事[国際] | 20:17 | comments(1) | - | pookmark |
ヘソが茶を沸かすぜ
 この微妙にネガティブな論調の毎日新聞の記事を読むまで知りませんでした。「紅色観光区」
 「紅」=「アカ」ですね。

 歴史上の要衝が観光地になるのは普通の事ですが、「紅」=「アカ」な人達には、観光地がアタって門前市を成す状態は、資本帝国主義的で我慢ならない訳ですね。
 「紅色観光区」に天安門が指定されているのは、愛国心教育というか、国民への恫喝の意味もあるのでしょうか?「また戦車で潰すぞ。」と。

 中華人民共和国は、地球上で最後に残った、脅威としての共産主義国です。

 >愛国教育を兼ねた一石二鳥のプロジェクトでもある。
 >集客数を5年後には1億5000万人、10年後には3億人に増やす。

 思いっきり資本主義。というか商業主義ではないですか。

 国民の殆どの方はそう思っていないでしょうが、日本は、米、英、仏、独、そしてソビエトと共に、ベルリンの壁もろとも共産主義を叩き潰しました。それまでがクソだとすると、現在はけっして自慢できる状態ではありませんが、それでも肥溜めの中からは這い出した状態です。
 そんな中、中華人民共和国だけが、改めて己れを共産主義国家と標榜し、莫大な人口を盾に世界へゴリ押しを続けています。

 しかし、古のアカの遺物、そして日帝のイコンを集め、政府への求心力を増そうとした共産党の考えは、中華の拝金主義の前にすっかり「有効利用」にされているようです。

 中華な人々は、何よりカネが大事で、それは民族的資質として尊敬すべきものであり、その血脈が、共産党の思惑を台無しにしているのは、ある意味痛快です。

 さて、HISにでも電話して「紅色観光区」ツアーでも行きますか。人肉の餃子が食えるんですよね?

| 時事[国際] | 14:54 | comments(0) | - | pookmark |
ペガサスとフレディとF1と [6]
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 ここまで書いて、93年の鈴鹿から、94年のサンマリノまで、記憶がぼやけている事に気がつきました。もうちょっと違う話に振ってから、と考えていたのですが。
 「呪われた週末」とも「イモラの地獄」とも言われる、たった一戦で、2人ものレーサーの命を奪った1994年サンマリノグランプリ。

 予選2日目。日本でもF3000等に参戦し活躍し、この年からF1にステップアップしたオーストリア人レーサー、ローランド・ラッツェンバーガーがアタック中にサイドウォールに激突、死亡。
 モータースポーツに冷淡な日本のスポーツ新聞も、さすがにキオスクに見出しチラシを出していた覚えがあります。1982年、カナダGPでのR・パレッティ以来の死亡事故。同年は、ジル・ヴィルヌーブが事故死した年でもありました。

 なんだかひどく無感動に「今のF1でも死ぬんだ。」と思っていたような気がします。土曜日のことも、虚ろな記憶です。

 日曜日深夜、フジTVのF1放送が始まりました。スピーディなテーマ曲と、CGを軽快にモンタージュしたオープニング映像。明けて実況開始。観客で埋まったスタンド、マシンとメカニック、グリッドガールらがひしめく、何ともいえぬ華やかな、出走を待つスターティンググリッドへと、繋がる筈の映像が現れませんでした。

 夕闇が迫るイモラ。異例の中継です。実況の三宅アナウンサーと、解説の今宮氏が、2人だけで写し出されました。ラッツェンバーガーの死を伝える2人の顔は、憔悴しきってどす黒く、不吉さを感じさせられました。

 ポールポジションからトップを走り、コーナーで、すっと消えるセナのウィリアムズFW16を捉えた、2番手で追うミハエル・シューマッハの車載カメラ映像。

 FW16が凄まじいスピードで現れ、そのままタンブレロのコンクリートウォールに激突する、まるでスローモーションのようなロングショット。

 バラバラになった足廻りと、形を保ったモノコック、セナの首が動いた一瞬。

 長い、長い応急処置。

 路面に残った大きな血痕。

 飛び立つメディバック(救急救命ヘリコプタ)

 ペースカーを入れてレースは再開されましたが、良く憶えていません。

 レース終了。再び実況の2人が、セナの死を伝えました。

 今宮氏は、「それでも、レースは続いていく」と言いました。

 明けて月曜日。

 青山のホンダ本社のショールームに足が向きました。

 セナのマシン。無敵のマクラーレン・ホンダが見たい。

 時間は11時前。10人に満たない人々がマシンを囲んでいました。誰も泣いてはいません。しかし会話もありません。じっと見つめていました。

 ショールームのスタッフが、「ともかく前の広い所へ出そう。」とマシンを動かし始めました。

 ホンダ本社ショールームの一角を、厳粛なものが支配していました。花束は思いつきもしませんでした。一度でいいから、エンジンに火を入れ、独特の甲高いエグゾースト・ノートが聞きたいとだけ、思っていました。

 ひとり、またひとりと何かを振り切るようにそこを後にしました。新たに加わる人も。俺も出て行きました。振り返りはしませんでした。午後から沢山の花束が手向けられました。夜のニュースに出たマシンは、午前中、自分が見たときよりも、きれいで、落ち着いて見えました。

 それは、レースで、色とりどりの敵と斬り結ぶマシンの姿から離れたもので、自分が見たものも、抜け殻でした。

 気持ちの整理もつかぬまま、その2週間後、第4戦モナコGPが始まりました。
 レースで失ったものは、レースでしか取り戻せない。

 伝統のモナコで、レースの、グランプリの本当の力を知りました。

(続)

| Motor Sports | 14:02 | comments(0) | - | pookmark |