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その奥は深いのか。
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神話:1995-1999
 
 あの年から、もう10年。しかし、記憶は風化しません。
 自然、そして人間の妄想が我々の社会に対し、苛烈なまでの牙を剥き、許容する事など不可能な数の人命を呑みこんだ、1995年。
 「災厄」。その通りです。しかし何が年月による風化を拒むのか。
 日本人にとっての、敗戦以来のパラダイム・シフトが起きた年だからです。
 
■0:「G」作品

 こと日本において「怪獣映画」は欧米の「モンスター・ムーヴィー」とは少し違うベクトルを持ちました。
 「ゴジラ」は当初、「何を怪獣にするか?」から設定が始められ、最初は大蛸が船団を襲うというものだったそうです。
 やがて映画としてのスケール感やドラマの構造から、怪獣にはやはり恐竜の方がネタ元としてはマッチする事が導き出され、当初、香山滋によって南太平洋のとある島の奥地から現れるというスクリプトが起こされました。大自然に秘められた未知の生物の恐怖。戦前よりの少年冒険物語の系譜を継ぐ、王道のストーリィです。
 しかし、時に1953年。敗戦から未だ10年も経たない日本には、最悪の恐怖が覚めやらぬ記憶として存在していました。太平洋戦争、そして近代総力戦の涯ての敗戦です。

 本作は、1作目にして、ジャンルの決定版となるべく、「G」というコードネームを与えられ、秘密の企画として制作が進められました。

 「災い(ないしは変革)は海の彼方よりもたらされる。」という国際社会への後発の島国(海洋)国家日本の持つトラウマ。「海より来たる」米軍によって行なわれた徹底的な都市の破壊、原爆投下、そして日本軍によって占領され、やがて米軍によって占領から解き放たれ、結果的に平和を取り戻した筈の、南太平洋の島々を覆う、解放軍であった筈の米軍による、水爆実験の災厄と恐怖。

 ストーリィは一気に走り出しました。圧倒的災厄の恐怖、破壊をもたらす怪獣への怨み、未知の生物を「怪獣」たらしめた人類の科学の象徴としての核兵器。人類の科学への驕り、怪獣を「殺せる」人類の科学と業(ごう)。己をも滅ぼす科学の極致「超兵器」の開発とその存在が次の「超兵器」を産むというジレンマ。(言うまでも無く冷戦のことです。)

 1954年。モノクロの画面いっぱいに描かれた、核への怨嗟が生み出した異形の巨大生物の恐怖、華々しい破壊スペクタクル、おびただしい犠牲への戦慄、全知全能をかけて怪獣という災厄に立ち向かう人々のヒロイズム、そして、核を越える「超兵器」の存在と矛盾。その矛盾を一身に背負い、一命を投げうつ若き科学者。そして苦く、つらい勝利。「怪獣映画」という表現が観客を圧倒しました。

 「ゴジラ」は、自らの国を狂気で滅ぼした(された)敗戦国日本からの、狂気から覚めようとしない、冷戦体制の世界へ発するメッセージでもありました。

 当時日本は、未だ傷も癒えず(永久に癒えないとも言えます)言わば包帯だらけのまま、危ない綱渡りを続ける世界に対し、対峙しているとてつもない文明の危機を、壮烈な映像として問うたのです。(以後、東宝は怪獣ものの他に、全地球的災厄に対し、世界が団結するSF作品をいくつか製作しました。)

ゴジラ
ゴジラ

 それから40年が過ぎました。

 ソヴィエトが崩壊し、冷戦体制が終わり、湾岸戦争でその冷戦時の備えが作り出した「現代戦」というものを目の当たりにして、ある意味毒気を抜かれ、核兵器が猛威をふるう、いわゆる「最終戦争」のイメージは、古い少年雑誌のグラビアのようにノスタルジックなものとなっていきました。

 1995年。世紀末とはいえ、未だカウントダウンすら思いつかない状態で、その時は来ました。

 1月17日払暁、阪神・淡路大震災発生。目を疑う被害と、信じられない程の社会システムの手詰まり。警察が、消防が、市民の泣きながらの懇願に応えられず、罵りさえ受けても機能できずにいました。「自衛隊は?」この時首相だった老人は、首相である事よりも「社会党員」でした。自衛隊の最高指揮官である権限を行使する事もなく、被災した各自治体が、すでにズタズタにされている通信手段で、なんとか災害出動の要請を行ないました(何時間も経っていました)。司令の首を賭けて、独断出動した陸自の部隊もありました。

 「何かが終わりかけている。」30年近く前、バカ小学生を震え上がらせたある本。本物の世紀末が近づくにつれ、どんどん怖く「なくなって」いった「ノストラダムスの大予言」。
 すでに三十路を過ぎ、もはや真に受けるわけもありませんが、それでも、あの不気味なカッパブックスの表紙が思い浮かびました。
 少なくとも、輝かしい次のミレニアム(千年紀)を待つのではなく、未知の(おそらく暗い)世紀末へのカウントダウンが始まりました。

 「終わりの進行」は杞憂ではありませんでした。震災による死者は日が経つにつれ増えつづけ、止まりません。社会とは、市民を護るとはどういうことか、自問が始まっていました。文明とは?。
 しかし、遅かった。3月20日。東京。

 「地下鉄サリン事件」。いびつな超人思想とそれを補完する終末論で選良を虜にして、醜く膨張し、そして暴走したカルトが、地下鉄で神経ガスによるテロを実行しました。

 このテロは、すでに警視庁、警察庁(公安)が動きを掴んでいて、秘密裏に自衛隊へも協力の要請がなされていましたが、攻撃は阻止できませんでした。しかし、スムーズに陸自への出動要請が行なわれ、化学防護部隊が出動しました。こうして、陸上自衛隊は世界初の「現代化学戦」を戦った軍隊となったのです。そして、「災害出動」以外の、「戦闘」する自衛隊を国民は初めて見ることになりました。

 往年の人気シリーズ「ガメラ」が、監督:金子修介、特撮監督:樋口真嗣の手によって14年ぶりに復活、「ガメラ 大怪獣空中決戦」として封切られたのは、そんな年でした。

■1:大怪獣空中決戦

 1995年公開封切り。当然、制作はもっと前なわけで、公開する年がどんなものになるか予想がついているわけではありません。

 もともと第1シリーズのガメラは「ゴジラ」の後追いで大映によって製作され、見応えのある良い怪獣映画でしたが、「でかいカメが手足引っ込めてロケット噴射も凄まじく空を飛ぶ」という設定は、大人向きのストーリィにはやはり不向きで、児童向け映画へ路線を変え、子供たちに親しまれました。
 その設定は寸分も違わず本作品に盛り込まれました。そして怪獣映画のある意味品質低下を招いた「VS路線」も、あえて復活され、まさにガメラの宿敵と言える鳥型怪獣ギャオスを追撃する形で本作は進行します。
 「鳥の一種らしいが無性生殖能力を持ち、育つと翼長100メートル、飛行速度は音速に近く、鳴き声は超音波か、あるいは粒子ビームになって何もかも真っ二つに切れる」というギャオスの設定は、これも第1シリーズの「ガメラ対ギャオス」の設定を踏襲しています。

 このファンタジックな設定を現代向けにシェイプする為に、両怪獣に対し「古代文明文明人の生体兵器」という謎が付与され、怪獣の破壊力が、己が科学力を過信し、その驕りゆえ滅ぶ事になったであろう古代文明人の「負」を現代に投影する構造になっています。

 そのイメージは周到にプロットに織り込まれ、プルトニウム輸送船の不安感、(ここで第1シリーズで主役を務めた本郷弘次郎が出演します)酸鼻を極めるギャオスの被害、そしてガメラと感応する少女の登場、太古の文明よりの不吉なメッセージ、あくまでも科学的にギャオスを追う主人公。そして、凄まじい破壊力をあらわにし「海」より出現するガメラ。科学への期待と絶望、善玉も悪玉も無く、戦う両者によって破壊されて行く都市、生活、人間。何にもシンパシィを感じる事無く、破壊阻止の為だけに、冷徹に火力を投入し続ける自衛隊。

 かつてないリアリティを持つシークエンスと映像が、観客を新しい次元の「怪獣映画」へ叩き込みました。それはまさに戦争であり、誰ひとりひるむことなく戦い続ける酷薄なドラマでした。

 破壊とは、ディスコミュニケーションの極致でもあります。ストーリィはガメラと感応する少女を中心に走ります。手だてを求めて。それが、太古の「負」であることもかまわず。

 その「負」は、1995年に日本人が経験した、「文明」的な生活をもたらす「社会システム」のあっけない脆弱さと、「科学を弄ぶ」狂えるユートピア(その前段階としてのディストピア)思想とそれがもたらす災厄に重なり合います。

 ただ観客たる我々は、「味方」ガメラとコミュニケーションを成功させ、ギャオスを撃破したことに満足するのが精一杯でした。

ガメラ 大怪獣空中決戦
ガメラ 大怪獣空中決戦


■2:レギオン襲来

 警視庁、警察庁、そして自衛隊のオウムとの戦いは、最終的に勝利したものの、神経ガステロの実行を2度も許し、結果的に多数の上級職警官の処分を出し、警察全体として深く傷つきました。(2004年の国松警察庁長官銃撃事件の犯人特定と不起訴というドタバタは傷の深さを思い知らされます。)

 一方、自衛隊は、今までの自らの姿を目立たなくする。というサヨク対応から、80年代中期から宝島社の内部暴露本が意外な評判をとって志願者が増えたり、カンボジアPKOに同行した宮嶋カメラマンの突撃ルポなどの好評により積極的広報に移行しつつありました。当然「大怪獣空中決戦」もその流れの一環で防衛庁の全面協力を得られたわけです。
 不況もあり、自衛隊志願者は増え始め、「勧誘」に苦労することもなくなり、「軍隊」という特殊能力公務員の存在を国民が理解し始めていました。
 そして地下鉄サリン事件が発生し、「自衛隊」以外の全国民の理解をこえた化学兵器という「死」に立ち向かう陸上自衛隊・科学防護隊の姿は「そもそも軍隊は要るのか?」という自衛隊の存在意義への問いに対する強い返答となりました。

 その「再生」がストーリィの基本構造に重なるのが第2作「レギオン襲来」でした。ミもフタもない言い方をしますと、「巨大レギオン」が出てこなかったら、「ガメラ」は要らないんじゃないか?というほど、本作の自衛隊の活躍はめざましく、描写は緻密です。

 今回の敵、地球外生物レギオンはいきなりインフラを潰すという印象的な攻撃を仕掛けます。生理的嫌悪感を抱かせる、群れをなす小型の個体から、ガメラより巨大な個体(女王?)まで。
 対する自衛隊は小隊レベルの歩兵戦から機甲部隊による火力戦まで、全スペクトル域での素晴らしい戦闘シーンが堪能出来ます。

 前半、札幌での草体の出現と破壊までのストーリィは、1995年3月20日の陸上自衛隊科学防護部隊の行動そのものでした。
 地下鉄のレギオンに最初に対応した警察・機動隊がやられ、科学防護隊士官・渡瀬2佐の「独断」出動、出動した自衛隊と現場を確保する警察とのちょっとした反目、渡瀬2佐の「俺みたいな馬鹿な奴がひとりは〜」はサリン除洗完了を、汚染した地下鉄のホームで、自ら防護マスクを外すことによって確認した科学防護隊長へのオマージュにさえ思えます。

 そして、草体爆破のために無人の地下鉄駅へ突入する陸自の工科(工兵)隊員。完全野戦装備、小銃を構えて改札を次々とすり抜けていく様は、20年くらい前だったら、サヨクが怖くて撮影は不可能だったでしょう。「軍事クーデターを「思わせる」ような。」とか馬鹿のひとつ覚えの抗議が殺到した事と思われます。続いての「生存者発見!」「救出!」のシークエンスは自衛隊にサービスしすぎかと思われますが、「男の子」心を揺さぶります。揺さぶられて防大を受験た奴も居ることでしょう。平成ガメラシリーズは、自衛隊のみならず、この辺のタイアップスポンサーへのサービスの上手さが光ります。また、札幌地下鉄や、マグライト社など、「やられメカ」系の露出を許諾した大人なスポンサーが目立ちます。

 また、本篇では電波の使えない状態で地下との連絡を懐中電灯の手信号で行ないましたが、地下鉄サリン事件の時も、伝令の手信号で行なわれました。携帯電話は地下に弱く、PHSはまだ始まったばかりでした。
 (ちなみに自衛隊の「無線」は、割り当てられたバンドが狭すぎて、都心の電波過密状態ではてんで使い物にならなかったそうです。地上での連絡は主に隊長の携帯電話で行なわれました。これも、ケータイを使いまくる渡瀬2佐で再現されています。(スポンサーでもありますが。)

 「レギオン襲来」は「災厄」には「悪意」によるものが存在すること、それを「攻撃」と解釈すること、そして対応するためには「迎撃」が必要なこと。言葉はブッソウですが、考えてみれば当たり前のことがストーリィの骨子でした。
 「レギオン襲来」は、打ちのめされた1995年への反証であり、反撃の開始だったと思います。

 自衛隊の総力を賭けたレギオン阻止作戦のシークエンス、「特撮俳優」小林昭二氏の最末期の出演となる、レギオンを迎え撃つ航空隊兵装先任曹長のセリフ、「今度は絶対守ろうや。」は、ストーリィの流れでは太平洋戦争の事を言っていたわけですが、その当時の状況を考えると、また別の意味を持ってきます。

 本作は怪獣映画であると同時に、自衛隊を主人公にした始めての戦争映画と言えます。
 (そうなるよう準備されていたわけですが。)

 主戦場とはならなかった東京のシーンで、「大怪獣空中決戦」で破壊されたままの東京タワーに我々は戦慄します。おそるべき怪獣は今も存在しており、人々はまだ破壊におびえなければならない。怪獣映画は、これまで「イベント」として成立していましたが、本作はここで「怪獣のいる世界観」を提示します。「意志をもった災厄」と言い代えることも出来るでしょう。

ガメラ2 レギオン襲来
ガメラ2 レギオン襲来


■3:邪神「イリス」覚醒

 1999年封切り。さすがに「ノストラダムス」はもはや出番なしですが、憶えておいででしょうか?「2000年問題」が人々を恐れさせていた年です。ATMがバカになって預金がパアになるとか(少しは自分でものを考えて欲しいものだと思いました)、トチ狂ったコンピューターが、核戦争を起こすなどというヨタを飛ばす奴まで出ました。年末には沢山の技術者がサーバルームで年を越すはめになりました。

 破壊された東京タワーで、「災厄」としての怪獣と、その被害の「続行」を時系列的にも描写するというリアリティを提示した本シリーズは、実在の報道番組等を織り込む等、情報摂取量が桁違いに多くなった現代の観客を、さらなる「怪獣のいる世界観」に沈めて行きます。

 フィリピンでのギャオスの復活。日本は「国難」として怪獣に対峙します。そして、怪獣映画の中で、発されることのなかった究極の問いがなされます。

 「やつらは何だ?何を目的に日本に現れる?」

 ガメラによって、それもガメラにしてみれば倒れただけの事で両親を殺された少女が、ギャオスの変種(生体兵器の恐ろしい所です)と感応してガメラを殺そうとします。彼女はその変種に、両親とともに死んでしまった飼い猫の名を付けます。彼女にしてみれば失われた家族の補完だったのでしょうか。
 オーソドックスな「大怪獣空中決戦」、ソリッドな「レギオン襲来」に対し、「邪神『イリス』覚醒」は、フィリピンのシークエンス、イリスの潜む奈良と湿った雰囲気、少女の思いは、切ないが故に邪気を帯び、散りばめられた伝奇的モチーフによって、陰鬱な不吉さと共に進行します。
 そして不吉の象徴、ギャオスを追撃する状態でガメラが渋谷に出現。「ギャオスを仕留める」ため「だけ」に、破壊し尽くされる渋谷。陰鬱なトーンを一変させるガメラの暴力描写は壮快ですらあります。そして、ガメラに対する観客のシンパシイは薄れさせられます。

 自衛隊もまた「何を目的としようと人間に害をなすものは敵である。」テーゼの基に、ガメラへの執拗な攻撃を開始します。

 少女と感応し、恐るべき破壊力を備えた怪獣としてのイリスの出現。ミサイルを浴びながら狂ったようにイリスに追いすがるガメラは、もはや生物というより「戦闘」そのものと化しました。

 ギャオスは古代の異常な生物工学によって産まれた怪物。
 そしてガメラはそれに対抗する唯一の方法として造られた生体兵器。

 地球環境を狂わせたものと、それへの対処。
 穏やかな抗議、矛盾を解きつつゆっくりと進む解決法の追求。

 そして、1995年、それらが無力であることを日本人は知りました。
 方法として正しく、軋轢を産まず、出来るだけ人を傷つけない。しかし、間に合わない。

 科学に対する驕りが産み出した「負」そして「業」。それへの解答としての「戦闘」。

 イリスとガメラの戦闘は、太平洋戦争時でさえ被災を免れた京都に舞台を移します。
 木と紙で出来た街は、爆発による閃光や崩落するビルの粉塵ではなく、オレンジ色の、まさに紅蓮の炎に包まれます。

 イリスを斃し、もはや、誰とも感応しなくなったガメラは、炎の中で傷ついた体を震わせ咆哮します。戦いのためだけに「創られた」生物。巨大な「死」と戦い、それゆえに多数の生命が消えてゆく。
 前2作と違い、本作は大団円を迎えません。傷だらけの日本へ、さらにギャオスの大群が迫り、自衛隊は総力迎撃指令を発します。

 人類にとっては、ただ、生き残るためだけの戦い。そうするほか是非はなく、物憂い世紀末に浸っている暇もない。戦え。生き残るために。

 「戦闘」のみをテーゼとする異色の怪獣が、ここに完結しました。

ガメラ3 邪神<イリス>覚醒
ガメラ3 邪神<イリス>覚醒


■4:過去と未来のはざま

 俺は残念ながら本シリーズを劇場で見ていません。そのかわり、全3作をぶっ通しで見る事ができました。1年前の事です。
 初代シリーズへの敬意の表明や、およそ怪獣映画のセオリーというセオリーをがっちり組み込んだ構造、絶対必要な科学者を女性主人公にして一気にプロットのシェイプアップを計ったアイディアとそれを可能にした金子修介監督の演出、自衛隊の全面協力による素晴らしいリアリティ、そして重量、速度、膨張率等を自在に操る樋口真嗣特撮監督による快楽的とさえ言える特撮シーン。
 そして、本シリーズのもつ独特のメンタリティ。現在「左派」はあまり活発でなく、支持も得られていません。だからといって、日本国民が一斉に「右翼化」したわけでもありません。ただ、「自らを護る」という認識が現在の気分を産み出したのではないか?と思っています。

 そこでキーになるのが阪神・淡路大震災であり、オウムの神経ガステロでした。そこから、2000年問題が片付くまでの、変な重苦しさと、このシリーズは重なりあっています。
 意図があったにしても、これはシンクロシニティーとでも言うしかないと思います。

 日本に於ける怪獣映画は、この時代性を持つという部分で異色です。ゴジラのときは、時代性が前提としてありましたが、本作はほぼ平行して時代が走ったわけです。

 本稿は、このブログの書き手「ぜろ」氏の、「続編が見たい」というメイルに対して書き始められたものです。時代を孕み、不安を具現する怪獣映画は、アイデアだけでは命が吹き込まれません。怪獣映画を一言で括るとすれば・・・・答えは、「大怪獣空中決戦」のエンディングテーマが力強く歌いあげています。

 そう、いつの時代にか、なにかの異常が臨界点に達した時、怪獣は出現するでしょう。それはガメラかもしれないし、また別の何かかもしれない。しかし、それは必ず現れる。

 それが、「久遠の神話が蘇る」時です。

ガメラ THE BOX 1995-1999
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