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その奥は深いのか。
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キャラが違う
 「少し考えて言ったらどうか」2月18日付産經新聞の社説がライブドア堀江社長に叩き付けた言葉です。

 産經新聞は堀江社長にケンカを売られたと考え、真っ向からそれを買った訳です。
 この記事に到達するきっかけになった、ANN(テレビ朝日)のサイトでのタイトルは「『少しは考えろ』産経新聞が堀江社長を痛烈批判」というもので、たかが8字を節約する為に激しく人を見下した論調に見えます。もちろんこれは字数の節約などではなく視聴者の気を引く「キャッチコピー」処理です。文書原稿はともかく画面は「同業他社のケンカ」と揶揄しています。

 俺は基本的に見下したものの言い方は大嫌いなので、どういった意図の基にこの高慢なタイトルが出現したか、原典である産經新聞の社説「主張」(2月18日)を読みました。

 >いうまでもなく産経新聞は「正論路線」に立脚している。これは冷戦時代のさなかに策定された「産経信条」(昭和四十五年)の「民主主義と自由のためにたたかう」にもとづき、西側陣営にたって、社会主義国のイデオロギーや軍拡路線、非人間性を批判してきた路線を指す。

 冗談抜きで素晴らしい。俺はまったく寡聞にして知りませんでした。以下、産經新聞の目指す所が縷々述べられていきます。民主主義を支える言論の自由を維持する為にそこに関わる人間が、持たなければならない厳しい、そして誇り高い自律の精神。

 文字通りの「正論」であると思います。

 ところが、それらを無視して、経済活動に於けるメディアという「資産」としてしかフジ・サンケイグループを見ていない(と断じている)堀江社長への攻撃は、単なる「辛辣な皮肉」です。

 朝日新聞の雑誌「AERA」の記事が俎上にあり、それに対する攻撃は「AERA」もろとも、経済主義=悪、経済抜きの正義を貫く言論の自由=善。で切り捨てられています。
 この「切り捨て」が俺には「既存大型メディア」の傲慢に見えます。ここで言う「経済」抜きの正義を、あまねくメディアを通じて発信する為には、強大な資本を必要とします。ではその資本をどうするか、国民から集める?我ながら小賢しい誘導ですが、NHKが言論の自由を守る砦たる役割を務められているでしょうか?産經新聞の「オピニオン」は、「オピニオン」を読みたがる、あるいは「オピニオン」で啓蒙される読者だけで成り立っているのでしょうか?まるで否定されているような、フジサンケイグループの持つ豊穣な「娯楽性」が産み出す資本は、金にならぬどころか、持ち出しにもなりかねない「オピニオンの発信」を助けていたりはしないのでしょうか?

 「西側陣営」が、何を武器にして社会主義にトドメを刺したのでしょうか?言論の自由?人間性の尊重?その通りでしょう。ではその自由を、人間性に斟酌できる余裕を保障したのは何か?

 資本主義の強力な経済力ではなかったのではないでしょうか?

 堀江社長の言動は拝金に感じられます。「お前の会社を買う」と言われてはいそうですかと、とても言えるニュアンスではありません。しかし、放送事業を言い表した一言。

 >利益をあげることが最大の目的である一般事業会社とは当然異なり、より大きな公益性と社会的責任が伴う。

 俺は経営者でもなんでもありませんが、この一言は、世界中の企業に対して、不遜極まりない発言だと思います。
 企業たるもの、利益追求は必須です。それはコミュニストでもない限り、企業人なら誰だってそうでしょう。それこそ社長からバイトまで。その上で、「公益性と社会的責任」を全うするのが企業ではないのですか?これはあたりまえの事ではないのですか?だから「法人」として、いち個人に準ずる「人格」を持ち、磨く事を求められるのではないですか?

 4大紙の論説委員に、こんな事を言っても笑止でしょうが、すくなくとも産經新聞の論説委員はうろたえている。「若造が」と見下している事を隠さない。心ある企業人(日本の働く人ほとんどだと思いますが)に不快な思いをさせる事を何とも思っていない。「言論の自由」という旗持ちを許されているだけで舞い上がって、その武器を誰が作ってくれているかに思いを寄せない。

 こいつらに「言論の自由」を語られる筋合いは無い。

 堀江社長へ「言論人」らしい辛辣な反撃を期して、産經新聞が、「フジ・サンケイグループ」の「営利追求」の為に、命賭けて守るべき手中の玉を、石つぶてのように投げつけて恥じない。手段を選ばぬ「営利追求」の本性を顕した、醜いオピニオンだと思います。

 「AERA」への批判に見える朝日への敵対、そして冒頭に述べた悪意あるテレビ朝日の本件に対する論調。同業ライバルの足の引っ張り合い。

 言葉が汚くて申し訳ないのですが(いつもの事ですが)どいつもこいつもクソ野郎どもです。
| - | 03:38 | comments(0) | - | pookmark |
キレえもん
ニュースや報道系ワイドショーという、放送業界の中でも屈指の愚劣な番組で、それこそ「切れ」まくってる姿を見せる“堀衛門”…

本人が出演してイメージを更に悪くしてくのは明らかに【損】なので、ここは例の美人(?)広報担当に、代弁させる方が“より”経営者的な判断だと気づくのはいつだろう。

つか、あまり飾らないストレートな“モノ言い”や旧態依然とした体勢崩壊を予見させる行動が、経験の浅い若年層の支持を得ている現象は、今後の10年〜20年を生きていく上で大切だとも思うんですケドね。
ここで行き倒れになってしまってはアカンですし。
もっとマスからも“好かれる”、“支持を得られる”やり方とかに切り替える時期なのかもしれんです。
| 時事[社会] | 00:20 | comments(1) | - | pookmark |
了見違い
 農業(特に酪農)は、人類が最初に起こした産業による自然環境破壊です。
 個人の事情は色々お有りでしょうが、公有地、しかも公共設備を無断で使用して、無知に依るものであったとしても、結果的にウサギによる一種の酪農を行い、しかも環境インパクトの強い方法をとってしまったわけで、墨田区の処置は温情にあふれますが税金の無駄遣いです。

 >可愛がってくれそうな人にウサギを譲ってきたといい、「飼ってくれる人がいれば引き取ってほしい」と話している。

 食え!
| Science/Technology | 11:58 | comments(1) | - | pookmark |
復讐
 不快な、悪いものの言い方ですし、他人の職業の事を卑下するのは許されませんし、自分でもクローズドな中でしか言わなかった事ですが、俺は、「教師はおしなべてクズである。」と思っています。あくまでも、俺自身が思っている事です。

 「給食を全部食え」で、小学校の昼休みはほとんど遊んだ覚えがありません。嫌いなのが肉だったおかげで、貧乏教師の逆鱗に触れたらしく、ポピュラーな「ニンジン、ピーマン」な奴は赦されても俺はダメでした。
 今だったら瞬時に親が怒鳴り込んでくるような体罰教師がいました。単なるサディストです。学年の終わりに訓示をタレたあとまた殴りました。それを「良い事」と感じるほどに生徒は支配されていました。

 中学の教師には「運動部とそれ以外」という差別方法を思い知らされました。下校時の買い食いです。「運動部は腹が減っている」という理由で俺だけが叱責されました。これは親にもあり、近所の同級生を、アホなのに野球をやっているという理由で「見習え」的な事を言われ続けました。

 高校になると、笑い話ですが、浮いている俺を御しやすいと思ったのか「弁当食わせる」という理由で日教組大会に連れて行ったサヨク教師がいました。行く方も行く方ですが。
 この頃になると教師同士のパワーバランスの見極めが必要で、実に面倒でした。完全にやる気の無い奴もいました。(無論こっちは、もっと強力にやる気無い奴らでしたが)

 実際に書いてみると、高校と言わず全部笑い話ですが、俺は頭が悪いので、大学の2回生の時に、小・中の教師の悪意に気づきました。
 今でも鮮明に思い出せる、頭の中が真っ黒になり、手先が冷えてくるような怒りです。

 「殺そう」と思いました。

 大阪の小学校で教師が殺傷された事件、「想定外」とあります。客観的にはその通りですが、主観的には「あり得る」と思いました。今日は鬼畜路線でスタートしましたから続けますが、犯人の17歳男子は、場当たり的だったから、被害がここまでで終わったと(もう十二分に痛ましいですが)思われます。彼の感覚としては「ガラス割り」と同じウェイトだったのではないでしょうか?

 家族でさえ、軋轢から刃傷沙汰に及ぶ事があるのに、他人で、支配され、睡眠時間を除けば家族と匹敵する時間を共にする教師が、憎悪の対象にならない訳はありません。

 卒業して5年も経って、「復讐」に現れたのは、「もの」を考え始めたからではないか? 気づかなかった「憎悪」は顕れると強く具体的な像を結びます。
 同じ市内に今も住む彼が、実行に移すまでには、さほどの決意は必要でなかったかと思います。

 彼はテレビゲームだけのフィールドに居たのでしょうか?ゲームには設定もドラマもあり、けして刺激を視聴覚に流し込むだけのものでは無いと思えるのですが。
 ましてや仮想と現実が癒合して犯行に結びついたとは思えません。

 俺の17歳時は、映画と本とマンガがありました。本屋と映画館と図書館にヒキコモると、すっかりヘンな奴が出来上がってしまいましたが、大学に行くと、ヘンな奴を面白がるもっとヘンな奴に出会え、ヒキコモリのネタは、外界に切り込んで行く道具になってくれました。

 彼はテレビゲームに飽きたのではないでしょうか?

 俺は小説やマンガや映画で、暴力と狂気を摂取しまくりました。「飼いならした」と言えば格好良すぎですが、狂気の「感じ」は今も俺の側にあります。

 彼が、飼いならした筈の「狂気」に飽きてしまった。失われた狂気を埋める為に、自らが殺戮者と化した。自分が「狂気」のなせる行いを実行する為には、正義が必要だった。正義の向かう先が、教師に対する憎悪だった。

 阻止不能。
| 時事[社会] | 09:57 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
One Year Passed
 ひとりになったら、泣いてしまうと思った。

 オフィスはいつも通り騒がしかった。その風景がぼやけ、鼻の奥が痛くなり、ごまかす為に鼻をかんだ。
 ニュアンスの解るであろう友人に、叩き付けるようにメイルを送り、何の意味がと一瞬思い、別の友人に電話をかけ、呑みにいった。

 朝まで、帰らなかった。

 2004年2月14日 プロ・ロードレーサー(自転車)マルコ・パンターニ死亡。34歳。

 歳をとると、ファン、あるいはヒーローだったりする人間の死に直面する回数は増える。
経年だから当然の事だ。悲しみはする。喪失感に抱きすくめられる。しかし、冷静ではいられる。

 だが、そうではないヒーローがいる。それが、マルコ・パンターニだった。

ツール・ド・フランスに代表されるヨーロッパ・プロ・ロードレースのスター。
山岳コースを得意とするクライマー。

 トップ集団の選手たちも、喘ぎながら登る山岳コースを、はるか下方から、ギャラリーのどよめきとともに猛然と上昇(彼は「登って」ではなく「上昇して」くるのだ)し、たちまちトップ集団を捉え、プレッシャーを与えるどころか、その圧倒的な加速力で「諦め」させ、ただひとり頂上を目指す。
 真っ先に頂上を越えると、下りでの反撃を試みようとするレーサーたちを、「キレた」としか形容のしようがない速度で引き離す。バイクのカメラも追えない速度。ヘリのカメラがそれを追う。

 やはり何も書けていない。こんなもんじゃない。こんなもんじゃないんだ。

 彼のアタック。
 天地がさかさまになり、世界の彩度が一変する。
 それまでがモノクロだったかのような、鮮烈な変化。
 人間は空を飛べる。とさえ思える瞬間。
 レーサーとは、ファイターである事を証明する戦い方。

 それが、1年前の今日、永久に失われた。

 イタリア、リミニ。アドリア海に面した美しい浜辺のある所。
 フェリーニの故郷。彼の作品の原風景。

 パンターニはそこを訪れ、ホテルに投宿した。一人で。
 5日後、変死体となって発見された。
 数種類の精神安定剤、コカインと疑われる粉末。

 数週間後、発表された死因は、いくつかの薬物の過剰摂取による脳の浮腫。

 客観事実としては事故だが、これはどう見ても自殺だ。

6年前から、プロ・ロードレース界をドーピング・スキャンダルが覆った。違反者が次々と挙げられていったが、ドーピングの定義の難しさと、国によって規定、罰則が異なる事からくる不公平で、レースは荒れた。多くのレーサーが傷つけられた。
 やがてパンターニを「ドーピング」が襲った。
 真相はあやふやなままだ。ドーピングそのものの技術が高度化した現在、ジャッジがすっきりと出る事は少ない。しかし、頂点に居るものを襲うスキャンダルとして、報道関係にはもっともおいしいニュースだ。
 何が起きたのかはトレースしきれない。激しいスキャンダル報道の渦に巻き込まれ、パパラッチに追われ、心を病んでいった。ということが推測されるだけだ。物事を品のない見方で記事にするだけのメディアは多い。洋の東西を問わず。
 そして、敬意のない扱いを最も嫌うのが、パンターニのような生れつきのファイターだ。

 ドーピングは悪。薬物で能力を向上させる「不正」ではない。競技者の心を破壊する「悪」だ。
 だがドーピングを生むのは、身体能力の極限を追求する現代スポーツそのもの。
 たとえば、酸素摂取能力を高めるため、事前に自分の血液を採取して保存、競技前にそれを体に戻す「血液ドーピング」は禁止されているが、日本のマラソン選手のように、空気の薄いボウルダーで高地トレーニングを行うのは全く問題がない。両者とも「赤血球」を増やすということにおいて同じ目的だ。
 もちろんそれを「外科的」に行う前者は健全ではない。しかし、主に資金面から高地トレーニングを行えない競技者は多い。そこに注射器一本のドーピングはつけ入る。

 豊かな国のライバルは、身体の全てをモニタリングされ、完全な調子を作り出す。スポーツ用の心拍計は1万円ちょっとで買えるが、1万円が大人1人の年収に匹敵する貧しい国も多い。
 
 このような状態で全ての競技がイコールコンディションで戦われると言えるだろうか?
 そして豊かな国は、新しいドーピングを開発する。ルールブックに載らない薬物。
もちろん最初に使った奴だけが役得に預かる。使われた薬物はルールブックに載る。豊かな国はこれをいつまでも続けられる。

 悪の根は深い。アテネオリンピックの後、ドーピングで「黒」とされた競技者を、真っ当に非難するならともかく、揶揄するような論調が多かった。取り締まる側であるJOCのコーチたちもそうだった。
 甘すぎる。競技者は多くの人に夢を抱かせる崇高な使命を持っている。汚濁にまみれる姿を見せてはならない。大人同士の不細工な論争を特に子供たちに見せてはならない。ジャッジする側の正義と、広範なものの見方と、金のかかるドーピングを看破する技術力。どれひとつとして欠けてはならない。

 「甘い生活」で、海岸(リミニではなかったか?)で少女に呼びかけられる主人公マルチェッロは(現代のバイクに乗ったそれとは比べ物にならない程お洒落だが)パパラッチだった。彼は少女に背を向け、歩き去った。

 パンターニは5日間もリミニに居ながら、一度も外出せず、一度も海を見なかった。
 海岸に行ったら、少女がいて、彼をこの世に留めてくれたかもしれない。

 そんな事を考えながら、連れの友人とは全く違う事を話し、笑い転げながら、二桁に重なったグラスを更に増やしていた。ひとりになったら、泣いてしまうから。
| - | 15:57 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |